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こんなことってあるのかなと思って観ていたら、真実のお話ということで驚いてしまった作品。1928年、ロサンゼルスで電話交換手主任として働くクリスティン・コリンズ(アンジェリーナ・ジョリー)の9歳の息子ウォルターが、クリスティンの勤務中に失踪してしまう。そして、5か月後に警察から息子が発見されたとの朗報を聞き、クリスティンは念願の再会を果たす。だが、彼女の前に現れたのは、最愛のウォルターではなく、彼によく似た見知らぬ少年だった。クリスティンは再会した子が息子ではないと主張するが、警察は取り合わず、逆にクリスティンを精神病院に送り込むのだった・・。
タイトルの「チェンジリング(Changeling)」とは、「すり替えられた子」という意味。タイトル自体がネタバレになっている感はあるが、本作はミステリーではなく社会派ドラマなので、特に問題ないと思う。まず、当時の様子を細部にわたり再現しているところに、本作の映画としてのクオリティーの高さが感じられる(当時はローラースケートで移動しながら、電話交換台の人を監督していたんですね〜)。市電が走る戦前のロサンゼルスの街や当時人々の様子も忠実に描出されていて、クリント・イーストウッド監督の本作への意気込みが随所に散りばめられているかのよう。ストーリー展開も直進的で、複数回観なくても一度の鑑賞で作品のほとんどの部分が吸収できる内容となっている。
アンジェリーナ・ジョリーの起用は意外ではあったが、鑑賞後には納得させられた。子供を失った苦痛、自分が嘘つきの精神障害者だと非難される孤独感、それでも子供を取り戻したいと願う母の強さ・・すべてを演じ切っていると思う。彼女の演技力の幅を証明していると言えるのでは。また、「恋愛依存症」から気になっていたジェフリー・ドノヴァンの魅力を再確認した作品でもある。今回は悪役で、不正と汚職の組織の中でその代表格みたいな警部を演じているのだが、存在感はたっぷり。最近日本でも人気が急上昇しているジェフリー。彼はどちらかというと、アメリカのTVドラマを中心に活躍しているようだが、これからはハリウッドからのオファーも受けて映画中心に頑張ってもらいたい。
本作は事実に忠実に描いているので、特に捻りはない。伏線が張ってあるわけでもない。あくまでも社会派ドラマなので、それはそれでいいのであろう。市長を後ろ盾に捜査の間違いを認めず保身に走る組織と、その言いなりになる医師・・暗く重くなりがちなテーマではあるが、子を思う母親の気持ちを前面に押し出した演出が効いている。社会的弱者がだんだんと社会に認められるプロセスが力強く描かれており、観る者を勇気付けてくれる。しかし、エンドロール前に「その後」について字幕で語られるのだが、クリスティン自身は希望を捨てないといいつつも、結構切ない気持になってしまった。息子の死が確定するよりも、ある意味残酷なのかもしれない。
とにかく、ドキドキ・ハラハラしっぱなしの作品。コピー・ショップの店員ジェリー(シャイア・ラブーフ)はある日、米軍に勤める双子の兄が急死したと知らされ実家へ呼び戻される。そして、ATMに立ち寄ると、何故か口座に75万ドルもの大金が振り込まれており、帰宅したアパートには大量の軍事用機材が届いているのだった。さらに、ジェリーは、法律事務所で働くシングル・マザーのレイチェル(ミシェル・モナハン)と、それぞれアリアという謎の女性に電話で操られ、本人の意思とは関係なく引き合わされる。目的も知らせぬまま、二人に次々と指示を伝え秒単位で行動させていくアリア。アリアに従わなければ、死が待っている。指示に従う二人は、FBIからも追われる身に。アリアは、次々と命がけのミッションを課すのだが・・。
三日間の物語なのだが、ロケ地の変わり方が半端じゃない。シカゴの街、地下鉄の駅、貨物集積場、空港ターミナル、送電塔が立ち並ぶ道路・・などなど。撮影クルーは、2-3日ごとに、まるで団体旅行のように移動したのだとか。セットは、全部で90セット以上使ったらしい。そこからも、CGに頼るのではなく実写にこだわる監督の信条が窺える。カーチェイスも、スピード感たっぷり。クラッシュして爆発するシーンもCGではないため30台もの車を使い、そのうち半分以上はクラッシュすることになったのだとか。
「誰かに見られているかもしれない」ということが気になる自分にとっては、癇に障るに作品ではあった。サスペンス・アクションなのかと思いきや中盤からSFの要素も入ってくるところが、「インディ・ジョーンズ クリスタル・スカルの王国」を思わせるような違和感を感じ、とうとうスピルバーグも焼きが回ったかな・・と思ってしまった(スピルバーグのファンの方、スミマセン)。ストーリー展開も、他作品に似ている部分が多い。これは既にどこかで観たぞ・・と思われる展開も続出。もしかして、他作品へのオマージュなのか・・?でも、オマージュにしては、中途半端。
そもそも、タイトルの「イーグル・アイ(“Eagle Eye”)」は「見張り」を意味するとともに、「鋭い観察眼」をも意味する。自分たちを守るためだとはいえ、エレベーターや駐車場など街中のいたるところに監視カメラが設置されている昨今。そして、メールやチャットなど、すべて傍受することも不可能ではない。プライバシーが24時間いろんな方面から覗き見られる不気味さが、充分醸し出されている。しかし、本作のコンピュータ・システムは、果たして「鋭い観察眼」を有しているのだろうか?性格も行動パターンも全く正反対の双子の弟を生体認識の道具として使おうとするコンピュータの皮相的な発想、そしてテロリストであることの確実度が51%しかなかったにもかかわらず、ミサイル攻撃を決断した大統領を筆頭としたアメリカ政府の幹部すべてを暗殺し、大統領を交代させる作戦を躊躇なく敢行してしまうシステム。コンピュータの暴走が人間を破壊する恐ろしさ・・人間がコンピュータに支配されることによって制御システムが正常に作動しなくなる怖さが、ひしひしと感じられる
「スピルバークの秘蔵っ子」と言われているシャイア・ラブーフの体当たりのアクション、そして追い詰められた緊迫感を感じさせるミシェル・モナハンの演技・・十分見応えはあるが、ラストがちょっと蛇足+腑に落ちない感じ(賛否両論あるようですが)。「アノ人」が生きていたのもびっくりだし、それにラブ・ストーリー的な要素は一切排除して欲しかったというのもある。コンピュータの暴走の恐ろしさをテーマにした着眼点はよく、アクションも迫力があるが、ストーリー展開がちょっと陳腐だったので、キビシメの評価の★2.8。
スリリングかつドキドキ・ハラハラ感たっぷりの作品。米国の諜報機関CIAの敏腕工作員ロジャー・フェリス(レオナルド・ディカプリオ)は、世界を駆け回り、地球規模の爆弾テロを画策するテロ組織リーダーであるアル・サリームを追いかけていた。彼に電話で指示を出す上司は、冷徹なCIA局員エド・ホフマン(ラッセル・クロウ)。フェリスは情報を追ってヨルダンのアンマンに飛び, ヨルダン総合情報庁長官であるハニ・サラーム(マーク・ストロング)に協力を仰ぐ。また、彼は作戦行動中に怪我を負い、その手当をしてくれた看護師のアイーシャとプライベートで逢うようになる。やがて、彼はCIAのガーランドの協力を得て、建築家オマール・サディキを使って罠を張る作戦に・・。
巧妙な作戦で裏読みが必要な濃い内容で、特に中盤からラストにかけて目が離せない展開になっている。思わず、身を乗り出して鑑賞してしまった。原題は、“Body of Lies”(嘘の塊)。敵を欺くには、まず味方からということになるのだろう。ハニがフェリスに「自分に嘘をつくな」と念を押していたにもかかわらず、自分の知らないところでホフマンが取った行動によってフェリスはそれを反故にせざるを得なくなったり・・。と思っていると、ストーリーは二転三転して、フェリスは・・。
孤軍奮闘する工作員役のディカプリオの体当たりの演技が見物(拷問を受けるシーンは凄絶)。一方、ラッセル・クロウについては、安全が確保された遠隔地から無人偵察機で成り行きを見ながら無理な指示ばかりしてくるイヤな上司役を演じているのだが、善人顔が災いしてどうもしっくりこない。この役のために増量してでっぷりとした体型にし、眼鏡をずらして上目遣いで凄味を出そうとしているんだろうけど、彼自身の人の良さが滲み出てしまっている。マーク・ストロングは、どこかアンディ・ガルシアに似ていて一目見て「渋みのあるいい男」という印象。
本作は、当然フィクションであるが、かなり現実に近いことが描かれているのだと思う。「事実にほど近いフィクション」と称されているが、まさにその通り。アメリカ側の無人偵察機によるスパイ行動に対抗するテロリストたちのやり口というのが、完全にアナログ。パソコンや携帯などのデジタル機器を一切使わず、口伝てに連絡するという方法を取っている。この方法なら、デジタルなアメリカのやり方では太刀打ちできない。また、「殉教」という名のもとに、知りすぎた者に自爆を強要するテロ集団のやり方からも、彼らの恐ろしい実態を見せられたような気がする。
イスラムと西洋(というかキリスト教)は、歴史から見ても長年に亘り戦争を繰り返しているわけで。「イスラム人は世界中の人間をイスラム教に改宗させるつもりだ」という欧米人のとらえ方も偏見に満ちているし、住めば都と言わんばかりに中東が好きになっているフェリスでさえ、中東に完全に馴染むことができないでいる。フェリスがアイーシャの姉の宅を訪ねるシーンでも、アイーシャの姉とフェリスの間でお互いの考え方に食い違いがあることが浮き彫りにされている。その点からも、イスラムと西洋がお互いに理解し合える日は来ないのかな・・と思わせるようなちょっとネガティブな面も窺える。という意味でも、娯楽作品とは言い難い本作。見応えはあったが、その分全部受け止めようとするとかなり重くのしかかってくる。★3.6
子供向けファンタジーなのか大人向けなのか、中途半端な作品。外出恐怖症の人気冒険小説家、アレクサンドラ(ジョディ・フォスター)は何年も自宅に引きこもって暮らしていた。新しい小説のネタを探していると、孤島で暮らす海洋学者の記事に目がとまる。彼に協力を求めるつもりでいたが、南の島の少女ニム(アビゲイル・ブレスリン)から物語のヒーローであるアレックス・ローバー宛てにSOSのメールが・・。ニムを救うため、アレクサンドラは初めて家の外へ出て、南太平洋へと旅立つのだった・・。
まず、何がネックになっているかというと、ニムのペット。ペリカンやアシカはいいとしても、「アレ」が全くNGな私。出てくると、画面を正視できなかった。しかも、チャプターのポインタまで「アレ」のマークになっているし・・。「アレ」が空から降ってくシーンを見てしまって、夢に出てきたらどうしよう・・なんて本気で心配してしまった(生理的に受け付けないんです)。
原題は、“Nim’s
Island”(ニムの島)。なので、あくまでもジョディ・フォスターは脇役で、主役はアビゲイルちゃんということになるのだろう(ジャケットを見る限り、ジョディが主演だと勘違いしてしまいますよね)。それにしても、ジェラルド・バトラーがアレックス・ローバー役で架空の人物として登場するんだけど、この存在がやや曖昧。アレクサンドラは、ニムのところに向かう時に、アレックス・ローバーと別れる。架空の冒険家との別れは、今まで小説の中に引きこもってきた自分を捨てた事のメタファーになっているのだろう・・ということで納得することに。海洋学者との一人二役を演じているのは、彼自身のアイデアなんだとか。
アレクサンドラの外出恐怖症が簡単に治るとも思えないし、いくら娯楽映画といっても、「あり得ない」にも程がある。しかし、アビゲイルちゃんと南の島(オーストラリア・クイーンズランド州ゴールドコーストにあるヒンチンブルック島で撮影されたそうですね)のPVと思えばまずまずの出来かもしれない。アビゲイルちゃんは、相変わらず可愛いし、島の雄大な自然が画面から溢れ出すよう。ジョディのコミカルな演技が観れたのも、良かった。
でも、やっぱりなんだか釈然としない。邦題が示すように「ある物語」への序章で終わっていて、そういう終わり方をするのであれば大人向けのファンタジーということになるのだが(でも、「彼」との恋を想像させる終わり方はあまりにも安易すぎる・・)、中盤の内容はファミリーで観れる子供向け。アメリカではファミリー向けということで宣伝しているんだそうだが、日本ではこの邦題から行って大人の女性向け。つまりアレクサンドラに感情移入して、「勇気を出して一歩を踏み出そう」というメッセージが売りになっているような。児童小説が元になっているのなら、そっち方面で通すべきだったのでは。予告編では児童文学のような印象はなくてジョディ・フォスター演じる引きこもりの作家が主役で、しかもこの邦題ではラブ・ストーリーを想像させる・・(マーケティングが間違っていると思うんですけど)。★2.4
日本では未公開の作品ながら、全米では興行収入6,000万ドルを稼ぎ出し、世界40ヶ国で大ヒットした作品。亡き母の親友サラに面倒を見てもらっているアンディは、仲間たちとストリート・ダンスのチームを組んでいた。しかし、学校をさぼってばかりのアンディ。サラはアンディに怒り、テキサスへ行くかダンス学校に真剣に通うかの選択を迫る。ダンス学校のオーディションに何とか合格するも、基礎が全く出来ていないアンディは授業について行くのがやっとの状態。ストリート・チームの練習にちゃんと参加できないアンディは、チームの仲間との関係が悪化する。そんな矢先・・。
「ステップ・アップ」の続編ということになるのだが(チャニング・テイタムがワンシーン出演しているというだけで続編扱いになっているようですが、特に前作のストーリーを引き継いでいるわけではありません・・でも、ボルチモアにある芸術学校が舞台となっているという点では同じです)、今回はストリート・ダンス。ストーリー自体は、前作と同様どうってことないような内容だけれど、ダンスが凄く良い。主人公のアンディ役のブリアナ・エヴィガン以外のダンス・パフォーマンスは相当なもの(ブリアナのファンの方がいらっしゃったら、スミマセン)。冒頭に出てくるチャニングのダンスもステキ。音楽や振り付けも、申し分なし。ストリートでのダンス・バトルが中心になっているが、おそらくそれが全米のダンス・ファンに支持されているのではないかと思われる。全米では爆発的人気だったということもあり、どうやら既に次回作「ステップ・アップ3D」が予定されていて、アンディがまたもや主演だとか(でも、また日本未公開ということになるのでしょうね)。
とにかくストリート・ダンス好きの方には、おススメの作品。ダンスに興味のない方で、青春映画的なものを期待している方には、ちょっとキビシイかも。あくまでもダンス・ムービーなので、あまり深いものを期待してはいけない。私個人としては、ストリート・ダンスやヒップホップが大好きなので、かなり楽しめた。チーム・メンバーのダンス・パフォーマンスはもちろんのこと、ダンス・バトルに参加するダンサーたちのレベルが半端じゃないので、ダンス自体を観ているだけでワクワクしてくる感じ。 ラストの雨の中でのダンスも盛り上がるし、エンドロールではダンサーたちのパフォーマンスをオムニバス形式で流しているが、これも見応え十分(繰り返し鑑賞してしまいました)。そう言えば、パーティーでサルサを踊るシーンなんかも入っていたりして・・。
前作と比べて恋愛のストーリー性が弱いので、二人が惹かれあっていく過程がもう少し詳しく描かれていてもいいのではないかと。でも、アンディの相手役のロバート・ホフマンは、MTV Movie Award 2008でベスト・キス賞を受賞したんだとか。ロバート・ホフマンは、個人的にはタイプなので、次回作にも出てほしい。ちょっと気になったので、どんな他作品に出演しているのか調べてみると、「デス・トリップ」、「ダンシング・ハバナ」や「アメリカン・ピーチパイ」とある。主演ではないだろうけど、いずれ機会があれば鑑賞してみたい。★3.3
ABBAのヒット・ナンバーのジュークボックス・コメディで、同名ミュージカルを映画化した作品。ギリシャの小島でシングルマザーのドナ(メリル・ストリープ)に育てられたソフィ(アマンダ・セイフリード)は、まだ見ぬ父親とバージンロードを歩くことを夢見ていた。結婚式を控え、父親探しをすることに決めたソフィ。彼女は、ドナには内緒で、父親の可能性のある母親の昔の恋人三人に結婚式の招待状を出す。そして、ソフィの父親は・・。
60歳近いとは思えないメリル・ストリープの歌いっぷり、踊りっぷりがノリノリで、スゴイ。メリルは10代のときオペラ歌手を志していたらしく、歌唱力は相当のもの。舞台は観ていないので比較ができないが、映画ではギリシャの映像美を堪能できるところが良い。残念だったのは、私の好きな曲である“Knowing Me, Knowing You”と”That’s Me”が入っていないことと、ピアース・ブロスナンの歌唱力がイマイチなこと。ストーリーについては、あってないようなものなので、とにかく歌と踊りを楽しめればそれでOKといった感じ。
主人公は最初はソフィかと思いきや、実は母親のドナということが後半になってわかる。まず、ABBAの曲を使っているという時点で、観客のターゲットはある程度の年齢層を設定しているのだろう。だけど、ABBAの曲を知らない人でも充分に楽しめるし、オジサンやオバサンがノリノリで歌って踊るシーンなんかは、若い人が観ても楽しい気分になれるのではないだろうか。しかし、突然歌いだしたりするミュージカルが苦手な人には、ちょっとキビシイ作品かもしれない。何せ、歌と踊りがメインなので。
音楽の素晴らしさを除くと、映画史に残るミュージカルとまでは言い難い。「ドリームガールズ」などと比較した場合、衣装もそれほど見栄えはしないし、振り付けもシンプル過ぎる。別の言い方をすれば、素朴な演出により音楽を引き立たせ、そしてエーゲ海の風景とマッチするような無邪気な作風に仕立てているのかもしれない。確かに、この音楽でこの風景で衣装や振り付けに凝り過ぎると、逆にそっちの方が浮いてしまうであろう。
また、「オペラ座の怪人」などと比べてみると、そこまで感動する作品でもない。勢いとノリで最後まで突っ走ってしまっているだけ。母と娘の心の機微に途中ジーンとくる場面もあるが、感動して涙するまでには至らない。また、予告編から想像できる範囲内に留まっているので、厳しい言い方をすれば「ABBAのミュージック・クリップ」に美しい風景というオマケが付いているような作品とも言えなくはない。しかし、ABBAのナンバーと同様に老若男女に幅広く受け入れられ、誰でも軽く楽しめる作品なので、重たい作品を観た後で頭のリセットをするのには良いかもしれない。★3.2
なお、ABBAをご存じない若い世代の方のために、以下ご参考に供します:
数多くの世界的なヒット曲を連発したことで知られるスウェーデンのポップ・ミュージシャン男女四人のグループ。 1970年代半ばから1980年代初頭にかけて活躍した。グループ名の由来は、メンバー四人の頭文字を取ったもの。
また、「マンマ・ミーア!」のミュージカルについては:
ロンドンでの初演を皮切りに、世界各地でロングラン公演を続けている。日本では劇団四季が四季版「マンマ・ミーア!」を上演していたが、2009年2月に千秋楽を迎えた。
英国の由々しき文芸ドラマで、英国貴族の豪華な生活を垣間見ることができ、かつ映像美も堪能できた作品。イギリス文学の傑作「ブライズヘッドへの再訪」(原作の邦訳版は、「ブライヅヘッドふたたび」や「回想のブライズヘッド(上)(下)」となっているようですが)は、TVドラマ化され、その後に映画化されたもの。第二次大戦中のイギリス。チャールズ・ライダー大尉(マシュー・グード)は、かつて自身が共に青春時代を過ごしたセバスチャン(ベン・ウィショー)の実家であるマーチメイン侯爵家の館にて追憶に浸るところから、ストーリーは始まる。オックスフォード大学に入学したチャールズは、貴族の息子のセバスチャンと意気投合、セバスチャンの実家ブライドシェッドを訪れることに。セバスチャンとチャールズはお互いに、友達以上の感情を抱いていくようになっていた。しかし、チャールズは、セバスチャンによく似た妹のジュリア(ヘイリー・アトウェル)にも魅力を感じ、ジュリアもチャールズに魅かれていく。そして、セバスチャンとジュリアの父親に合うためにヴェニスに旅に出た三人に、運命のターニング・ポイントが訪れる・・。
熱心なカトリック信者である母(エマ・トンプソン)の呪縛から解き放たれることのない兄と妹、そして無神論者のチャールズ。礼拝堂もある広大な屋敷に住む他者を寄せ付けない敬虔なカトリック一家と、貧しい家の出のチャールズ。登場人物の心情に肉薄するようなタッチで、それぞれの心の動きが精緻に描き出されている。派手なカメラワークではないが、罪悪感や心の機微が観客にダイレクトに伝わってくるよう。家庭のありようが子供にどれだけ影響を及ぼすのか・・母親のプレッシャーから逃れることができずに人生のレールを外してしまったセバスチャンが切ない。親の締め付けによって、子供の未来は変わってしまうものなのだ。厳格なカトリックの教えと同性愛の間で、凄まじい葛藤に苦しむセバスチャン。感情と理性の狭間で揺れ動く彼の様子は、時にはやるせないと同時に美しさをも放ち、ある種のテンションを高めている。
ブライズヘッドは、同じヨークシャーにあるハワード城が舞台として使われたよう。その他にも、オックスフォード、ヴェニス、モロッコでのロケにより、すばらしい映像を楽しむことができる。特に、ヴェニスでの熱気溢れるカーニバルやモロッコのバヒヤ宮殿については、まるでその地に旅行しているよう。また、ハワード城の中の彫刻や庭にある噴水など芸術品と言える品々が、細部まで余すところなく撮られている。そして、チャールズが記憶を辿っていることを示すような光をうまく使ったカメラワークが、幻想的な雰囲気を醸し出している。ブライズヘッドは美しく、豪華なのだが、時には兄と妹から自由を奪ってしまうという邪悪な一面も。ハワード城は部分的に公開しているようだが、TV版が公開されてから35%も訪問者が増えたのだとか。衣装も役作りの一環であると言い切るスタイリストの言葉通り、その時の状況や登場人物の気分によって衣装もそれに合うものにされた工夫が施されている(日本未公開の作品ですが、公開していたら劇場で鑑賞したかったです)。
子供の頃の教えや宗教のせいでどうしても越えることのできない壁があるのだと感じたとともに、経済的に心配のない(というか豪華すぎる)生活をしていても、心が何かに束縛された状態だと幸せだとは言えないのだな・・なんて切ない気持になった。セバスチャンのやるせなさは痛々しいほど伝わってきたのだが、その分チャールズとジュリアの関係の描き方が希薄だったのが残念。幸せだったときの回顧シーンとして、もう少しロマンティックな演出を期待していた。★3.3
「アメリカン・ビューティー」のサム・メンデス監督作品で、サムの妻であるケイト・ウィンスレットが主演。そして、レオナルド・ディカプリオをケイトの夫役にするのに、長い時間をかけてケイトがレオをくどいたのだとか。時代は、1950年代半ば。コネチカット州の郊外にある「レボリューショナリー・ロード」と名付けられた新興住宅地において、フランク(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)の夫婦は、二人の子どもにも恵まれ一見幸せそうに暮らしていた。理想の家庭を築いているように見えた二人だったが、もう一度人生への情熱を取り戻すという目的で、パリへの移住を決意する。そんな矢先に・・。
傍から見れば言うことない家族なのに、エイプリルは何が不満なのか・・というのが、一次的な感想。パリに行っても生活の保障はないどころか、パリに今までなかった何か新しいものでもあるというのか。あまりに、無鉄砲すぎる。それに、二人は愛し合っているようでいて、お互い浮気をしたり、日常的に言い争ったりしている。果たして、これは「アメリカン・ビューティー」と同様に、シニシズムを追及した作品なのだろうか、とも思ってみた。というのも、精神的に病んだ不動産屋の息子が訪ねてきて、フランクとエイプリルは「苦しみながらも家族ごっこをしているだけ」と、ものの見事に二人の関係の本質をズバッと言い当てるのだけど、その語りが妙に冷笑を誘う。
1950年代の時代背景を再現するために、小道具など細部に至るまでこだわりが感じられる。しかし、時代背景は違えども、夫婦関係の芯を描いているという点においては、普遍的なテーマを扱っていると言える。但し、隣の夫婦との会話で、パリで二人がどうやって生計を立てていくのかという話になった時に、パリではエイプリルが働くことについて、”Do you really support him?(旦那さんを本当に支えられるの?)“という反応がある。「あぁ、この時代はやはり奥さんが働いて家計を支えることは、珍しいことなんだ」と、時代の変化をあらためて感じてしまった。
ラストは、不動産屋のオバちゃん(キャシー・ベイツ)がフランク夫婦の悪口を言った後、オバちゃんの夫の顔のビミョーな表情がクローズアップされるのだけど、それが夫婦関係についての何かを象徴しているよう。夫婦関係をシニカルに描いたところについては「リトル・チルドレン」(これもケイトが主演です)を彷彿とさせるところがある。傍目にはおしどり夫婦に見えても、結局のところ完璧な夫婦なんていないんだろうなぁ・・という感想にたどり着いた。
新婚の時期は別にして、5年も経てばラブラブだけでは夫婦生活は続けられない。5年以上経って、どちらも離婚を考えたことがない夫婦がいたら、ぜひお会いしてみたい。それは、余程恵まれた環境の夫婦か(フランクとエイプリルも恵まれた夫婦だと思うんですけどね〜)、物事を自分の頭で考えることができない人なのか、どちらかでしょう。夫婦生活を続けていくには、お互い片目はつぶっていることが必要ということなのか。人間なんて何かが手に入れば、次に別の何かが欲しくなるもの。エイプリルもその「別の何か」を求めてパリに行きたいなんて言い出したのだと思う。現状に満足するなんて難しいことかもしれないけど、あまり欲を張りすぎると11年前みたいに沈没してしまうんじゃ・・と思っていたらやはり・・。
ケイトとレオの言い争いのシーンが凄まじく迫力がある。二人の迫真の演技に加え、メンデス監督が何気ない一つ一つのシーンを丁寧に、しかも二人の心情を精巧に描出するように撮っているところが、このドラマを上質なものにしている。★3.6
ロス市警の刑事トム・ラドロー(キアヌ・リーヴス)は、正義のために自分のルールを貫く一匹狼。そのやり方が同僚たちから問題視されていたものの、上司のジャック・ワンダー(フォレスト・ウィテカー)だけは、強引な違法捜査で大きな実績と成果を積み上げる捜査班の中でも特攻隊長的な役割を担うトムを買っていた。しかし、トムは、かつての相棒ワシントンが、彼を内部調査部に密告しようとしていると聞かされる。その直後、ワシントンは強盗事件に巻き込まれ、トムの目の前で殺されてしまう。犯人を取り逃してしまったトムは、自ら犯人を挙げるべく独自で捜査
を進めていくが・・。
「地球が静止する日」のクラトゥから一転し、人間臭い刑事をキアヌが好演(どうでもいい話ですが、配給が「地球が静止する日」と同じ20世紀フォックスなんですね)。また、ラドローは真犯人を追求する一方で自分の身も守らなくてはならない・・そんなジレンマの中で、ドラマは署内に蔓延する不正の暴露へと大きな広がりを見せていく・・といった観客を飽きさせない展開は、「L.A.コンフィデンシャル」や「ブラック・ダリア」の原作者であるジェイムズ・エルロイの脚本が光るところ。銃撃戦もかなり迫力がある。
原題は、”Street
Kings“。裏社会に君臨する「キング」とは、いったい誰なのか。黒幕は、途中観ていてピンと来てしまう。「悪い奴にも悪い奴なりの言い分がある」ということで、ラストで黒幕の価値観が語られるわけだが、ラドローがそれを聞いて選択する行動は・・。こういったダークな感じのクライム・アクションは他にもいろいろあるが、観るたびに組織の中で芯から信じられる人なんかいないものなのか・・なんて凹んでしまう。「昨日の敵は今日の味方」・・そして、その逆のパターンも然り。巨大なパワーを組織で掴んでしまうというところは、どういうことか。内部統制がちゃんと機能している場合はよい。しかし、そうでない場合は、巨大なパワーが深い闇を生んでしまい、その闇がとてつもない方向へと広がっていってしまうリスクもあるわけで・・。
問題は、黒幕が自分が悪いことをしているという意識が全くないということ。ラドローに対して「善などどこにも存在しない。だからこれは必要なことなのだ」と切々と語るのだが、この語りが一理あるような感覚に陥るほど説得力がある。また、黒幕の俳優自身の存在感もたっぷりで(これ以上書くとネタバレなので自粛します)、「この人、間違ったこと言っていないんじゃないかな」と一瞬思えてしまうほど。しかし、「犯罪都市ロスにおける善とは、そして悪とは?」と考えさせられるほどの深いドラマではない。組織の腐敗をえぐる二転三転のストーリーの妙に加えて、入り組んだ人間模様や善と悪の境界を疾走するラドローのアウトローぶり・・それがリアルで生臭く描かれているドラマという感じ。ハリウッドお得意の刑事ものだが、内容が内容だけに日本で高く評価されるかどうかは、やや疑問。
ラドローと行動を共にするディスカント刑事については、せっかくクリス・エヴァンスを起用しているのに、あまりその起用が活きていないような(いや、ご本人の演技のせいではなく、キャスティング的にという意味です)・・その点はちょっぴり残念。最後に超個人的な意見を言わせてもらうと、オッサン臭いキアヌもなかなかいいなぁ。★3.3
興行成績は大赤字で、作品としてのレーティングも高くないのが頷けるような作品。酒とオンナとドラッグにまみれ、堕落した生活を送っているハリウッド・スターのジョー・スコット(ダニエル・クレイグ)。最近仕事も落ち目で、マネージャーからは「お前はもう終わりなんだ」と見切りをつけられている。そんな中、かつての親友ブーツの訃報を聞いた彼は、封印していた過去の事件を思い出す。海辺の町で母と妹と暮らす思春期のジョーは、女の子のことが気になる年頃。好きな女の子ルースとデートをしたりして過ごしていた。そんな彼女がありながら、近所の奥さんエヴリンに直接迫られて、ルースとのデートの約束があるのにもかかわらずエヴリンのベッドへと行ってしまう。エヴリンとの関係を知ったルースは激怒。その後も、エヴリンは娘のジェーンを放っておいて、ジョーと密会を重ねていた。ある日、ジェーンが家から追い出され、海岸に打ち上げられていた水雷の上に登り遊んでいたら・・。
ダニエルとダニエルの友人で監督のベイリー・ウオルシュが構想を温めてきたいわゆる自主制作の低予算映画。日本でDVDリリースになったのが驚き、という感じなのだとか。ダニエル目当ての方にも、あまりおススメできない。というのも、若かりし頃の回想が半分以上あるので、ダニエルが出てくるのは3分の1くらい。ボンドのイメージで観ると、ガッカリすること間違いなし(でも、キレのある身のこなしに、何気にボンドが入っています・・それにしても、マッチョ・ボンドになる前に撮った作品なのに・・もともとキレのある動きをする俳優さんなんですね〜)。デヴィッド・ボウイの音楽が結構かかって、グラム・ロックがお好きな方は結構音楽については、楽しめるかもしれない(サントラも出ているようですね)。
娘を亡くしたというのに、「夫は私のことを責めるわ」とか「私は娘に嫌われていたの」とか、そんなことより「自分がもっと娘を愛してあげれば、こんなことにはならずに済んだ」と思わないのか、とエヴリンには呆れ果ててしまった。また、自分にも責任の一端はあるはずなのに、その場から逃げだしてしまうジョーもいかがなものか。エヴリンにはもちろんのこと、ジョーにもルースにも感情移入することができず、特に、エヴリンとジョーは、自業自得という感じが。ジョーの甘く切なくも苦悶の想い出を描いた作品、ということになるのであろうか。内容は、まさに原題
”Flashbacks of a Fool” (愚かな人間の回想)が示す通り。で、監督はこの作品を通じて何が言いたいのだろうか、結局?・・と聞きたい。
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